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物語と美のラグランジュ点をめぐって
ステートメントあるいは作品制作の指針
副島泰平
私たちは一体何者であり、何者であろうとしているのか。
情報の真偽が揺らぎ、不確かさが常態化した現代において、私は「人間が人間であるために必要な物語とは何か」という問いを掲げ、作品制作を通じて人間の生の意味を探究している。
かつて人々は、属している物語によって自身が何者であるかを規定されていた。物語とは単なる虚構ではない。それは個人の認識を規定し、人間が世界と関わるための根源的な基盤である。文化、民族、宗教、思想、日常の営みに至るまで、私たちは常に物語の構造の中に生き、それを通して世界に意味を見出し、他者と共存している。
現代は社会に普遍的な「大きな物語」がない時代である。20世紀末、人々を繋ぎ合わせた最後の「大きな物語」は度重なる悲劇を起こした末に解体され、経済的合理性という非人間的な論理のもと、無数の小さな物語へと一度は還元されていった。「大きな物語」は、それに属する人々に強い高揚と帰属意識をもたらし、個を超えた目的へと生を投じる感覚を与える。一方で、物語は他の物語を排除し、一つの「大きな物語」へと巨大化しようとする性質を持つ。一つの物語が「正義」として強度を持つとき、それは他の物語を押し除け、個の真実を押し潰す「重力」として作用する。私たちは物語なしでは生きられない。しかし物語は時に凶器となりかねない。
私は、大きな物語なしには漠然とした不安や生きづらさを抱えながらも、単一の物語に回収されることの暴力性に個としての生存の危機を感じている。この矛盾の中で、私は芸術には物語の「重力」、あるいは物語不在の「無重力」を拮抗させる独自の引力があると考える。
芸術は「美」という抗い難い引力を発生させる。かつてこの力は、大きな物語の重力を強め、あるいは別の物語へと誘引するために機能してきた。しかし私はこの引力を用いて、物語の重力圏を通過し、その軌道を変化させるための「スイングバイ」を行う。それは物語そのものの否定ではなく、物語の重力を利用した軌道変化である。
美の持つ引力には、私たちを既存の物語の中に取り込まれる重圧からも、拠り所となる物語がない苦しみからも、同時に脱出させる力がある。美しいと思う感情は、現実の唯一性を揺るがし、一つの事象に複数の意味が並存することを許容させる。美による作用は、意識を一時的に主体と客体の境界が曖昧化する「忘我」の状態へと移行させる。これは意味の消失ではない。むしろ、無数の意味が同時に立ち上がる中で、「自身がいかに無意識に特定の意味を選択することで世界を構築していたか」という認識の条件が露出する体験である。
私の作品制作は、このスイングバイを成し遂げるために、ミクロとマクロ、過去と未来、あるいは一つの真実と相対する真実という、相反する時間軸や価値観、物語の視点を「美」として表現する。微細な物質に宿る時間の堆積を凝視し、あるいは不確かな物語と歴史的に真実視されうる物質媒体を接続する。この視点の交差は、日常の断片から大きな物語を連想させ、また大きな物語の背後に潜む小さな物語を想像させる構造を持つ。本来相容れない複数の物語を同じ空間に併存させることで、鑑賞者が「何者かであるべき」という物語の重力から離れることを促す試みである。このスイングバイを経て、意識は星間のような、物語の重力から自由な領域へと至る。この忘我の先に訪れるのは、「主体的な自我の再獲得」である。
人が「何者かであるべき」という物語の枠組みから一度脱却し、自身が世界の一部であると同時に世界が自身の一部であるという根源的な実感に立ち返ったとき、人間は自らの意志で自らの生を再定義し得る状態へと到達できる。そして、これこそ私が芸術表現を通して世に残したいイデアである。それは物語と美が織りなす「忘我と自我の再獲得」の触媒であり、そのような触媒をこの世界に残すことが、私がアーティストとしてこの世界で果たそうとする役割である。
だが、それもまた一つの物語に過ぎない。
それゆえに私は、その問いへと立ち戻る。人間が人間であるために必要な物語とは何であろうか。